【パラグアイで起業した日本人】~両親の影響で身近に感じていた南米~(第2話)

前回の記事で、短絡思考の私が「起業する」という人生の目標を見つけた話をしました。今回は、私がどうやってパラグアイを知り、そこで起業するまでにどんな事を考え、どんな出来事があったのかをご紹介します。

人を形作るものは「体験と経験」です。では、私にはどんな「体験と経験」があったのでしょうか?一緒にみていきましょう。

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パラグアイに至るまでの話

さて、前回の記事でも触れましたが私は非常にパラグアイに縁のある人間なのです。しかし初めからパラグアイで、、なんて全く考えてはいませんでした。むしろ当時は日本が大好きな私にとって外国で起業しようなんて夢のまた夢でした。

ちょっと寄り道して、私がパラグアイに至るまでのお話をしましょう。これには父の存在が大きく関係しており、父の話なしで語る事はできません。まずは父の話から始めます。

私は小学校の時、父があまり好きではありませんでした。その理由は「食」に異常なこだわりをもっていたからです。夕飯に食事が並ぶたびに、ご飯を腹いっぱい食べられるなんて、なんてお前たちは幸せものなんだ。とよく言われました。そして、服装にも無頓着で趣味はなく、どうやら周りのお父さんと、うちのお父さんは少し違う、、?と感じました。

また、父は説教をする時、話をする時に簡単な単語でも「○○ってわかるかな?」と聞いてくるのです。読書が好きな私でしたのでもちろん知っているし、いちいち確認しないでくれ。と思っていました。

これら2つの事は父が移民していた時代に影響を受けているのだろうと考えられます。パラグアイに移民した日本人の大きな目的は農業で生計を立てる事でした。日本の海外移住振興株式会社(後のJICA)はパラグアイの未開のジャングルを切り開き、農作物を作るために日本人を送りこんだのです。

もちろん、強制的ではありません。父の父、つまり私の祖父がパラグアイに見果てぬ夢を持って移民を決めたのです。当たり前の話ですが、ジャングルを開拓して、農作物を作るという事は、開拓して、農作物を作って始めて食事が得られるわけです。

父はいまでこそ立派な体系ですが、少年期は虚弱体質だったといいます。さらにこの時期はろくに食べるものもなく、赤貧洗うがごとしの状態だったそうです。まずは、これが父が「食」にこだわりを持った背景といえるでしょう。

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マルチリンガルの父

父は移住者には珍しく幼い頃から勉強したいと常に思っていました。その為、両親に頼み込んで地元の学校(といっても掘っ立て小屋のような学校ですが)に通ってスペイン語を学んだそうです。

しかし、常に決まった学校で勉強する事は出来なかったそうです。父のいた移住地では少しづつ開拓が進みまともに食事がとれるようになってからも作った作物が全うな値段で取引されなかったり、市場での販売権がないといった問題が良く起こりました。

そして、徐々に移住地を抜け出して都心部へ移る家族が増えてきた頃、父達は最期の希望にとグレープフルーツなどの永年作物を植えようと考えました。

結果は大失敗、その頃に木に掛かる病気が流行したのです。しかもその病気は現在、植えてある木を全て伐採するだけでなく、決まった年月、同じ場所で植木をしてはいけないという病気でした。最後の希望をなくした父達は、アルゼンチンへ移動する事を決めました。アルゼンチンではその頃、カーネーションの栽培やトマトの栽培が盛んに行われており、父達も知人や、先輩移民者に頼み込んで仕事をもらいました。

しかし、やはり上手くはいきませんでした。そうしている内に歯の治療を怠った祖父が亡くなりました。大黒柱を失った家族は離散し、父は一人で生きていかなくてはなくなりました。父はその後、アルゼンチンからブラジルへ移り住み、ある農場にて現地人を管理する職をもらっていました。

そしてある日、社長からブラジルの永住権を取るために、一度帰国しなさいという命令を受けて日本に帰ることになります。父はこの時、スペイン語、ポルトガル語、日本語、グアラニー語(パラグアイのインディオの言葉)を話すマルチリンガルでした。

しかし、マルチリンガルとは良い事ばかりではありません。父は日本語を忘れかけていたのです。手記では「私の日本語はどこか不自然だっただろう」と記述があります。結局、父はそのまま日本に残る事になりますが、小学校の時に勉強して以来、日本語の勉強はしていません。その後、独学で漢字を勉強した父にとって、日本語はとても難しいものだったのでしょう。

だから、私に話す時に単語の意味をわかっているのかいちいち確認していたというわけです。

父だけでなく母も海外の話をしてくれた

そんな風に色々な経験をしている父の話しを聞いていたので、幼い頃の私は海外はとても近くて誰でも行く可能性があるものであると感じていました。

また、実は父だけでなく母も海外に出ていた経験があります。話によるとおよそ50年ほど前の話になるそうですが、母はとある地方の村の出身で、そこから飛び出した経験を私に話してくれました。

当時は、村から東京へ出るにも電車を乗り継ぎ、乗り継ぎ、相当な時間がかかる時代だったそうです。いわゆる村社会は良くも悪くも人目が多く、母は出身の村を気に入ってはいなかったそうです。そして母はアメリカの広い大地に憧れを持ち、当時直行便が1本しかなかった飛行機に飛び乗り家族と勘当同然でアメリカを目指したそうです。

アメリカについてからはベルガール(ホテルの荷物係)をしてチップを集めて、一人旅をして、金がなくなればまた、仕事を探して、、。というようにアメリカを旅していたそうです。我が母親ながら、情報も何もない時代にアメリカへ女一人で旅立つとは、肝が据わっていると感じます。

そんな両親の話を聞いていたので私もいつかは海外を旅してみようと考えていました。そして大学の時に海外を旅するチャンスを見つけて、行動しようと考えた時、忘れられない恩師にある言葉をもらいました。

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旅の骨子を決めた恩師の言葉

「お前は就活に失敗して逃げるんだ!だから遊びに行くと正直に言え!」

大学時代に所属していたゼミの先生の言葉です。今から10年以上も前、日本は景気のいい時代ではなく、まだまだ就職氷河期が続いていた時、受験の時と同様に入りたい会社も決まらず、私の就活は難航していました。

エントリーシートもたくさん送り、履歴書も山のように書きましたが、どの会社もしっくりといかず、本当にこの企業に入りたいのだろうか?と考えていました。就活を始めておよそ半年、私は過去の事を思い出しました。そうだ。いつかは海外を旅して広い見聞をつけたかったはずだ。今がそのチャンスではなかろうか?就職してしまえば長期の休みをとって旅をするなんて夢のまた夢。今がいいタイミングだ!そう思った私はさっそく、先生に相談しました。

やはり、大学生ならではといいましょうか。先生に相談する時も上記の通り、あたかも自分が旅立つ事はまっとうな理由があり、今しか出来ないからしたい。という言い方をしました。すると、先生から叱責の言葉をいただいたわけです。

反抗したい気持ちもありましたが、その時、確かにそうだと思ったことを覚えています。だから旅を思いっきり楽しみ、やりたい事を全てして、経験できる事を、体験できる事を全てやってから帰ろう!と思いました。

それから、大学を休学し、アルバイトを増やしました。当時働いていた飲食店はパスタ屋とカラオケ屋が一緒になっている奇妙なお店でしたが、私はその店のアルバイト暦が長く当時の店長よりもずっと長く働いていたため、信頼されていました。
朝は7時から夜は深夜まで毎日働き、お店で寝泊りしました。その甲斐あって3ヶ月ほどで貯金残高は100万を越え、ようやく念願の一人旅へ出発となりました。

最初は中国の上海からベトナム、タイ、ラオス、トルコ、そしてバルカン半島を一周して帰ってきました。その最中も様々な事があり、非常にいい体験でした。そんな旅の最中、一人旅だった私は自分とよく話しました。自分はどんな人間で何がしたいのだろうか?自分が思い描く社長になるためには、起業をするには何が必要だろうか。

長い長い思考の末に、自分に必要な事は「経営力」をつける事だろうと思い立ち、それが身につく企業に入ろうと考えました。

すんなり決まった就職活動

芯が決まると就活は思いのほか上手くいきました。旅から帰ってきた私は全部で5社の企業を受けて、内3社から内定をもらいました。

結局入ったのは企業の人材育成を担当する経営コンサルティング会社でした。ここでは人間の行動心理学。つまり、この人はなぜこのような発言をして、このような行動をするのだろうか?を活用した研修を行っており、私はそのコンサルタントの卵として営業をしていました。

この時の経験が、私の社会人としての礎を作ったのは間違いありません。もしも起業を考えて就職しなくてもよいとか、就職活動が上手くいかずに就職を諦めようとしている人がいたら、新卒の時には、企業に就職する事を強くおすすめします。
さて、次に訪れたきっかけはリーマンショックの時です。企業のマネジメントというのは景気のいい時は放任をし、景気が悪い時は管理統制型のマネジメントをするのが一般的です。

これがどういう意味かというと、基本的に人材の育成や営業などはある程度、チーム毎に役割を委任させたほうが人も育つのですが、景気が悪くなると遊んでいる人員をなるべくフルに活用できるように締め付けてしっかりと管理し、一人一人考え方の統一を行うという事です。

企業や営業には当然、目的や目標が存在します。私がいた会社の営業は将来コンサルタントになる為に勉強する事が目的でした。つまり目標はコンサルタントですね。

しかし、当時の上司に「お前もコンサルタントになるのが目標だろう?」と問われた時、私の答えはノーでした。もちろん起業する事が私の人生の目標だったからです。

幼い頃から身近に感じていた海外と、きっかけをくれた言葉たち

父はパラグアイ移民、母は一切の情報を持たずにアメリカを旅した肝っ玉かあちゃん。そんな家庭環境で育った私にとって、海外というものは、誰でも簡単に、そして一度は旅してみるものだ。という感覚がありました。

そして私に訪れたそのチャンスに、真摯に向き合い、助言をしてくれた恩師がいました。旅から帰って私が就職した会社では、社会人としての礎を作り、そして私に退職のきっかけをくれた上司の言葉がありました。19歳で夢見た起業がいよいよ現実のものになりそうです。次は、パラグアイまで来たきっかけのお話です。

続く

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松田 秀篤
2000年、高校卒業後、私立専修大学に入学、会計学を学ぶ。その後、人材育成を主な目的
とする経営コンサルティング会社、ビジネスコンサルタントに営業として入社。
行動心理学、経営学、マーケティングなど「ヒトや組織」について学ぶ。
リーマンショックをきっかけに同社を退職後、かねてから夢見ていた起業をに向けて動き出す
新天地パラグアイにて翻訳、ライター、立ち上げコンサル業などを行う。
現在は、組織の土台作りに奮闘中。

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目次

  1. 個人経営主と法人のメリットを比較
  2. 会社の種類は?4つの形態の違いを比較
  3. 新会社法は会社が守るべきルール
  4. 会社は6万円の費用で設立できる
  5. 最短時間で会社を設立するための流れとは?
  6. 会社設立の際に決めるべき5つのこと
  7. 定款の作り方とは?定款は会社のルール集
  8. 電子定款の作成手順を完全解説
  9. オンラインで電子定款を送信してみよう
  10. 紙で行う定款作成・認証方法まとめ
  11. これで完了、登記の手順
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