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2019年05月14日(火)

50歳で覚悟を決めて経営者に。災害に見舞われた大分県・井上酒造を立て直す元主婦の決意

経営ハッカー編集部
50歳で覚悟を決めて経営者に。災害に見舞われた大分県・井上酒造を立て直す元主婦の決意

経営者としての限界はどこだろう。

「社員に裏切られたから」「銀行がお金を貸してくれなかったから」人のせいにして、いつしか自分の行動や気持ちにリミットをかけていないだろうか。とはいえ突然、経営を放り出すわけにもいかない。社長がくじけてしまえば社員は路頭に迷ってしまうし、銀行やVCの信頼も裏切ってしまうことになる。

大分県日田市にある日本酒の蔵元、井上酒造の代表取締役、井上百合さん。家業の酒造メーカーを継ぐまで、酒造りも経営もまったく未体験。度重なる災害に見舞われてもくじけなかった。一度守り抜くと決めた社員の生活を守るためこの4年間、奮闘してきた。

50歳になるまで東京で主婦として暮らしていた井上さんを支えた価値基準は何か。その原点に迫った(聞き手: 仁田坂裕梨)。

株式会社井上酒造
代表取締役 井上百合
1804年(文化元年)、大分県当時日田郡大鶴村(当時)にて創業した、井上酒造の七代目蔵元。2014年に東京から大分県に戻り、自身の名を冠した「百合仕込み」を仕込んでいる。現在25歳になる娘の母でもある

東京で専業主婦に。気付けば20年が経っていた

井上酒造は1804年創業、今年で215年目です。家業は歴代、長男が継いでおり、私は二人姉妹の長女。幼い頃から酒の香りに包まれて育ち、七代目後継者としての自覚もありました。でもそれは社長、もしくは杜氏(とうじ、日本酒の醸造工程を行う職人)としてではなくて、誰かに養子として来てもらう、私は妻として「どう井上家と家業を支えていくか」という印象でした。実際にそういう育てられ方だったと思います。

「一度は外の世界も経験を」と親の勧めもあり、大学卒業後は福岡の企業に就職。そこで知り合った男性と結婚したのですが、お互いに長男長女の難しい結婚で、私が相手の籍に入るかわりに3年経ったら日田に帰り、蔵元を継ぐと言う条件付きでした。しかし、その3年後、東京への栄転が決まり、どうしても行きたいと言う夫の思いに私の父は承諾して結局私も東京へ着いて行く事に。娘を育てながら専業主婦を約20年、約束を守ってくれるだろうと信じていました。

結局、20年の間、私は夫に一度も帰郷の話を持ちだすことが出来なかった。

旧姓に戻し、地元の大分県へ

そんなある日、成人を迎えたひとり娘から食事に誘われて、

「育ててくれてありがとう。今、日田に帰らなかったら一生後悔する。これからはママの人生を歩んでいいと思ってるよ」と言われたんです。

帰郷への想いは悟られていないと思っていたので正直驚いたし、母親に人生のアドバイスをしている娘の成長が愛おしく感じました。

それまで抑えていた気持ちが溢れて、夫へずっと聞けなかった約束を聞いてみることに。すると、

「今はもうそのつもりがなくなってしまった」と言われたのです。想像もしなかった言葉でした。

それから時間をかけて話し合い、お互いに納得した上で籍を抜いて、私は井上酒造の井上百合として日田に帰ることに。人生の後半は故郷で家業を継いで生きていくと決めました。

災害に見舞われる

大分県日田市へは、2014年3月に帰郷しました。家業は酒を造ることを生業としているので、将来の経営者としてまずは酒造りを知るべきと考え、酒類総合研究所(東京都北区、現在は広島県にある)に入所。研修生として約2カ月間、合宿しながら酒造りを学びました。東大卒の国税庁の若者や、蔵元、10年目の杜氏に交じって学ぶ日々。このときは人生で一番勉強したと思います。

年齢はダントツ一番上でしたので、「お母さん」と呼んでもらい、試験に受かるコツも教わった。心から信頼のおける仲間ができ、卒業の日には私を含めて涙する人も多く、それほど厳しく充実した研修でした。

それから自蔵での酒造りがスタートしたのですが、研究所で知識を詰め込んだ、経験の浅い私は、一番大切なことが抜けたまま造りを始めてしまった。それは道具の手入れでした。

火事がきっかけで社員を守ろうと決意

ある日の夕方、蔵に行き扉を開けるとその先に炎が見えた。火事でした。すぐさま残業していた社員に連絡。命を顧みず消火活動にあたってくれる社員の姿に、私は人生をかけて、全力で社員を守る決意をしました。

残念ながら2015年(1年目)はお酒にする事が出来ませんでしたが、この経験が私のモチベーションとなり今も活き続けています。

Caption: 215年つづいた蔵には、古い酒造りの道具がならぶ。使っていない道具の手入れも入念に、ほこりが一切積もっていない

熊本地震で売上が大幅減

翌年の2016年、今度は熊本地震が発生しました。日田でも震度5の揺れを観測。マスコミはその被害状況を伝えましたが、大分は熊本に比べると報道の扱いは大きなものではありませんでした。それにもかかわらず、風評被害により観光客が激減しました。地元を基盤としている弊社にとって大幅な売上減でした。

九州北部豪雨の被害

酒は米から。作付面積は二反一畝(約2,100平米)あり、井上酒造では、酒米を自蔵の前にある田んぼで育てています。田植えから一週間経った頃、豪雨(平成29年7月九州北部豪雨)が襲ってきました。近くの沢が氾濫、田んぼが濁流の海と化した。激流で会社横のガードレールが破損、資材倉庫に土砂が流れ込んだため、瓶や段ボールを廃棄処分。昭和初期から使用していたタンクも流されてしまいました。

翌日、出勤して来た社員2人と共に肩を落としましたが、それも一日だけ。すぐに皆で復旧作業を始めました。

Caption: 保管倉庫。その先には田んぼが見える。豪雨で飲まれ、1年半経った今でも道路の一部が崩れたままになっており、片側交互通行の区間がある

立て続けの災害で怖いもの無し

まだ4年間ですが、経営をしていると夢も希望もないと思った日もあります。支えてくれる社員や仲間がいる。井上酒造の酒を待っていてくださるお客様がいる。

災害を乗り越えるたびに感謝の気持ちが大きくなっていきました。今後、何が起こってもくじける事は無いと断言できます。

情報の開示を行い、退職者ゼロへ

さまざまな困難を乗り越えてきた井上酒造ですが、経営的にも試行錯誤し続けてきました。

はじめに取り組んだのは、経営理念の策定。酒造りを研究所で学んだ後のことです。それはこの3つ。「品質」「伝統」「革新」です。品質を第一に考え、安全安心の酒造りに努め、伝統を大切にしつつ、新しいことへ挑戦する企業を目指すこと。これに基づき、「当社の現状及び方向性について」という書類を社員に配布しました。説明会を開き、経営理念を明確にして指針を打ち出したのです。

この書類の中で、弊社の置かれた現状、経営指標(収支やP/Lなど)を正直に開示しました。収支を知らせることについては悩みましたが、遠い未来の漠然とした目標ではなく、直近の目標に向かって皆で進みたいと思い決断したのです。

外部のアドバイザーにお願いし、計画書に基づいた5S活動(整理・整頓・清掃・清潔・躾)も導入。これで社員の一体感が生まれました。

さまざまな取り組みを行ってきましたが、経営陣が進むべき道を明確にすれば、社員はやる気を出してくれると実感しました。実際に、以前は高かった離職率も、開示後は退職する人がいなくなりました。

FacebookやInstagramで積極的な情報発信にも取り組んでいます。記事を見た方から働きたいとの連絡があり、実際に入社へと繋がる事例も出てきました。20代の彼は若い発想と機動力で営業の戦力となってくれています。

このSNSでは社員が交替で記事をUPしていて、こちらも包み隠さず正直に発信することを心がけています。災害時の様子や、日頃の失敗談、造りの様子から5S活動等、さまざまなことを発信しています。ここまで公開していいのかとも日々思いはするのですが、いいね!やフォローしてくださっているお客様が年々増加。蔵開きや見学の集客に繋がりはじめました。

Caption: 蔵を磨き上げる社員の方の姿

決算賞与の支給

内部情報の開示の際に、社員と一つの約束を交わしました。それは、「利益を必ずお返しする」こと。

そのためには販売管理費を削減して利益率を上げることが重要です。数値目標を立てて、グループ分けし5Sに取り組みました。すると社員の意識改革が一気に進み、実際に利益が出たんです。決算後の説明会で開示し、社員と共に喜んだ感動を今でも忘れません。約束通りに社員、アルバイト一律で決算賞与として支給。たった3万円でしたが、経営のサイクルができたと思える瞬間でした。

まとめ

私は4年前まで専業主婦でした。娘が背中を押してくれて、故郷に戻る決心がついた。酒造りもマネジメントも、故郷に戻ってから学んだことです。様々な災害を一気に経験し、くじけそうになりながらも乗り越え、人生をかけて守り抜く大切な社員の存在を知りました。支えてくださるお客様を想い、これからも美味しい酒を醸し続けます。

聞き手 仁田坂裕梨、編集・撮影 仁田坂淳史(株式会社ZINE)

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