2021年08月13日(金)0ブックマーク

AppBank村井智建代表に聞く、マックスむらいの「脱マックスむらい戦略」とは?

経営ハッカー編集部
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上場企業社長にして、人気YouTuber“マックスむらい”という、全上場企業を見渡しても特異な立ち位置のAppBank株式会社(東証マザーズ:6177)村井智建代表。上場企業社長としての決算発表を、YouTubeの「マックスむらいチャンネル」でも行うなど、この二者は不可分の関係にある。147万人の視聴者登録、8,000コンテンツを擁する屈指のYouTuberとなった村井氏が描く今後のAppBankの戦略は、何と「脱マックスむらい」だ。一見、自己否定にも見えるが、事業再構築に挑む、経営者村井氏の真意はどこにあるのか?今回その村井氏を直撃し、マックスむらい誕生から今日に至る経緯と今後の大いなる企てを聞いた。(2021年4月20日取材)

 

目次

    AppBank創業、iPhoneとの出会い

    ―まず、貴社の創業経緯をお聞きする前に、村井代表ご自身のご経歴についてお伺いできればと思います。

    当社の親会社だったガイアックス(マザーズ:3775)に入社したところから私の社会人人生が始まりました。2000年に、地元石川県から上京し、防衛大学へ入学をしたのですが、事情により3ヶ月で辞めました。その後、親から勘当されてしまい、東京で一人生きていくために、働かないといけない状況になりました。しかし、実家が牧場でして、父親がスーツを着ている姿は見たことがなく、会社といってもトヨタとソニーくらいしか知りませんでした。しかも当時は、ITバブルが崩壊した直後で、大変な就職難。たまたま、本屋に立ち寄ると、その名残で、一世を風靡したITベンチャーの求人が特集されている雑誌がずらっと並んでいて、その50社のうち、ガイアックスだけが、学歴不問と書いてあったのです。

    面接も受けたことがなかった私は、そもそも面接のアポイントを取るということすらも知らなかったので、ガイアックスのビルに直接行き、「ここで働きたいんですけど」と伝えました。それに対して、ガイアックス上田社長の兄の上田営業部長(当時)が面白がってくれました。話がはずんで、住居の話になったのですが、当然住むところも決まっていません。「え、住むところないの?じゃあ、会社に住む?」ということで、2年間会社に住みこみで働きました。夜になると、並木橋の交差点の所にある銭湯、さかえ湯に通っていました。1時閉店なのですが、我々は大体12時半くらいに銭湯に行っていました。当時渋谷はビットバレーと呼ばれていて、そこには渋谷のベンチャーで寝泊まりしている人がすごくたくさんいたので、みんながそこに集まっていました。とりあえず湯船に入り、シャワーは足りない、さながら毎晩さかえ湯がベンチャー企業の1つの交流会の場のようになっていましたね。

    ガイアックスでは、ずっと営業をやり、2005年にガイアックスが上場したのですが、ちょうど5年目のその年に営業の役員をやらせていただきました。

    ―結果として、IT業界から社会人生活がスタートしたということですが、もともとインターネット自体には興味があったのでしょうか?

    いえ、なかったです。入ったらパソコンを渡されて、これ使いなさいと言われたのですが、その時の私は使い方が分からなかったので、1時間くらいパソコンの前で固まっていました。そして、「お前まさか使い方わからないのか?」と聞かれ、「知らないです」という状態からのITベンチャーでの仕事がスタートしました。とはいえ、ガイアックスがコミュニティのシステムを提供している会社だったので、必然的に掲示板とか、チャットとか、アバター等のコミュニティに関する営業を自分で行う必要がありました。売り出すからには自分自身が良さを理解しないといけないということで、使い始めてみたところ、チャットにはまりました。毎日、3時間~4時間程度チャットをやっていて、「みんなでチャット」というチャットの、ルームナンバー50何番かの結構深い階層で、マニアックな人しか来ない、大体の参加メンバーが固定化しているチャットルームでずーっと、毎日チャットしていました。それが楽しくて、タイピングも早くなっていきました。これがインターネットを知り、使い、好きになっていくきっかけでしたね。今では、インターネットを通じて一生涯ビジネスをしていきたいと思っています。

    ―2005年のガイアックス上場後、役員としてご活動されている中で独立され、貴社を設立されるに至ったのでしょうか?

    いえ、AppBankの設立はもう少し後になります。実は、元々AppBankの前身で、株式会社GT-Agencyという会社がありました。GT-Agencyは、2006年に、私が代表取締役として起業したガイアックスの100%子会社です。同社は、モバイル業界にBtoBコンテンツを提供するという裏方の会社だったのですが、主に占いコンテンツとか、心理テストコンテンツとかそういったものを提供していた会社でした。2年目の時点で450社くらいクライアントと取引をさせていただいていました。当時の時代背景でいうと、モバゲーとか、GREE等の勝手サイトの黎明期。したがって、勝手サイトを運営していくうえで武器として占いコンテンツが欲しいというニーズがかなり高まっており、業績がぐっと伸びていきました。

    ―GT-Agencyの事業をそのまま拡大したと?

    GT-Agency設立から2年後、ガラケー中心のゲーム市場を大きく変動させるとある出来事がありました。それは、iPhoneの日本上陸です。一番初めにiPhoneが日本で発売されたのは、忘れもしない2008年7月11日。ソフトバンクの表参道店でiPhone 3Gが販売されました。徹夜で行列ができ、私はそれを初めてみたわけです。「わ!すごい!これがネットでよく見る、熱狂的なアーリーアダプターたちの饗宴か!」と。毎日色々なところに記事が上がるのですが、行列の写真をよくよく見てみると、そこに並んでいたのは当時の私のクライアントばかりだったのです。並んでいるクライアントの方々には普段とてもお世話になっていたので、「がんばってくださーい!」という感じで、リポビタンDの差し入れをしていました。そこで、クライアントの方々から「これはお祭りだから、村井ちゃんも参加したら?」という声があがったのです。

    当時私は、正直iPhoneを購入する気はありませんでしたが、クライアントがこれだけ勢ぞろいで並んでいるなら、私も並んでみようかなという理由で並びました。だから実は、iPhoneが欲しくてというより、クライアント同窓会みたいなところにご挨拶に行っていたら、いつのまにか並んでいたというのが一番初めのiPhoneとの出会いでした。前日の夜から並び、日付が変わって朝7時にiPhoneの発売が開始され、私は確か当時200番目くらいに並んでいたので、結構早々に朝10時くらいには手に入ったのですが、いざ購入し手に取った瞬間に「これはすごいな」と直感が働きました。ガラケーのサイトは元よりPCとは全然ちがいましたが、iPhoneは、さながらPCの画面そのものだったのです。当時の私は、あくまでモバイルはモバイルでしょうと思っていたものが、iPhoneはポケットから取り出して、3秒で世界とつながるスーパーコンピューターになるというか、インターネットそのものでした。直感的に「何年後かに、この小さいディスプレイの中で、商売が作れなかったら、一生インターネットで仕事するということは叶わないのではないか」と思い、iPhone頑張ろう、スマホを楽しもうと決意を固めました。

    ―当時、iPhoneを通じてビジネスを生み出そうという人は稀有だったのではないでしょうか。

     

    そのとおりでして、当時の日本では、スマートフォンは失敗するといわれていました。iPhoneを褒める論調はほぼありませんでした。今では、笑ってしまいますが、画面に指紋が付いたら汚いとか、日本の清潔感とか感性だと、画面にべたべた触るのはあり得ない、物理キーボードがないとメールができないじゃないか、赤外線通信がない、ワンセグがない等、買わない理由を挙げる声が圧倒的に多かったのです。しかし、そんな状態だったとしても、私が感じた「iPhoneはインターネットそのもの」だという直感に従い、これで商売を作ろうということで、模索を始めたのが2008年の8月でした。

    そしてその3ヶ月後にAppBankがスタートしました。iPhoneを通じて商売を始めるとはいえ、当時、私はずっと営業をやっていたので、アプリの開発等はできませんでした。いつか自分たちもアプリを作るのだということは念頭に置きながらも、その前段階としてアプリを紹介するメディアがあれば役に立つのではないかということで、ブログを書き始めたのが「AppBank.net」というウェブサイトでした。それが、2008年の10月6日。

    私はその時はまだAppBank一本というわけではなく、他のこともいろいろやっていたのですが、それから3ヶ月後、年明けに、当時AppBankの運営をやっていた宮下泰明氏(AppBank株式会社の共同創業者)から、「村井ちゃん、今結構Appbank.netが伸びてきているよ!2ヶ月で100万PV超えたんだよ」と聞き、私は「え!?それは、本腰を入れてやらないと!」ということで、私もどっぷりAppBankにライターとして参加したというのが最初の最初ですね。

    ―え!?最初は貴社にライターとしてジョインされたのですか?

    そうなんです。ライティングをするなら、形から入りたいと思い、文豪ってなんだ?ということから考えました。そこで、芥川龍之介に倣って文化の香りがする鎌倉に引っ越し、そこで記事を書き続けるということをやっていました。

    私は、これまでずっといろんな考えに影響を受けてきたのですが、その中の一つが、大前研一さんの「何かを変えようと思ったら3つのことを変えなさい、それは場所と時間と人間関係です」という彼の言葉です。これをやってみようということで、場所をまずは鎌倉に変え、時間の使い方を変えるという意味では、朝4時半起きで、毎朝5時からライターの仕事をしました。人間関係については、営業マンにとって資産である、電話番号を捨てて解約し、4,000枚くらいあった名刺を全部捨てて、メールアドレスも捨てて、全部0からということでリセット。鎌倉という環境で、ライターに集中するということは良いことで、8ヶ月目くらいから、アフィリエイト収益だけで、黒字転換をしまして、そこからAppBankも一気にどんどんどん!と成長していきました。

    ―ライターとして修練されていく中で、iPhoneを通じて、商売を生み出すという目標が徐々に現実化していったのですね。直感が確信に変わっていく実感を持てたタイミングはいつ頃だったのでしょうか。

    2012年2月iPhoneのゲームアプリ「パズドラ」が出たタイミングでした。その頃は、まだスマートフォンがゲーム機という認識はされておらず、どちらかというと、DSやPSPなどがゲーム機であるという認識をされていたので、スマートフォンでゲームをするということが普通ではない時代でした。一方、2011年頃から、Appleとしては、ずっとゲームを中心にiPod touchのCMを打っていました。AppleのiPod touchのCMといえば、Appleの新しい方向性を試す場だったので、弊社としては、絶対ゲームが来るよなと、様子をうかがっている頃でした。そんな中、パズドラが出た瞬間に、AppBankとして全面的にベットし、気づいたらiPhoneでゲームをすることが当たり前の世界に変わっていました。多分そこが、社会的にも大きなきっかけですし、スマートフォンが一般認知されたタイミングでもありました。そのちょっと前だと、メールがLINEに取って代わられた時期があったので、いきなり、スマートフォンが当たり前になったというより、だんだんスマートフォンが今の市場を形成していったと思いますが、その隣にいつもAppBankが寄り添うことができたので、大きくなっていったという感覚でした。

    マックスむらい大ヒットの光と影~クリエイターと経営の狭間で~

    ―iPhoneのアプリを開発するという当初の狙いは、実現されたのでしょうか?

    実は、パズドラが出る2年前にAppBank Gamesという子会社を作っています。同社は、「iPhoneは、ゲーム機としても胸を張れるよと言える、ゲームアプリを制作する」ために頑張っていた会社でした。当時は、ガラケーのゲームの焼き直しが、iPhoneのゲームランキングを独占していました。AppBankとしてこの市場へ乗り出していくか?と考えたときに、ガラケーのゲームの変遷を思い返すと、札束の投げ合いになりかねないとも考えました。とはいえ、「iPhoneはゲーム機としても胸を張れるよと言えるゲームアプリを制作する」という想いを実現するべく、iPhoneゲーム市場に対する、最後のひと勝負をかけようということで、AppBank Gamesを立ち上げたのです。当時、ゴルフゲームを作っていたのですが、実は、そのゴルフゲームのリリースの半年前にパズドラが出ました。言ってしまえば結構な投資をしたのですが、私は、パズドラに対して「これでいいじゃん」とどこか思ってしまったのですね。AppBankとしては、このパズドラを盛り上げて、市場を変えようと決めたました。これが、2012年でした。

    ―目的を実現するためには冷静な判断ですね。パズドラを盛り上げるためにどのようなことを行ったのでしょうか?

    スマートフォンアプリを紹介するメディアを運営する立場として、パズドラを実際に使い、パズドラがリリースされてから翌年には、当社にパズドラの攻略班ができるほどまでになりました。動画でもコンテンツ配信やってみたいねという話を社内で話している中で「やってみたいね、まずは、やろっか」と、動画配信にも着手することを決めました。

    私自身、ずっと営業もやっていたし、セミナーもやってきたため、人前で話すのも得意だったので、動画にはまったく抵抗はありませんでした。当時は、インターネットで顔出しをして動画を配信するなんてほぼいない時代で、配信されている動画のジャンルとしては、歌ってみた、踊ってみた、ゆっくり実況など創作の域でした。しかし、私はゼロベースから始めたため、そういった事前情報を知らず、テレビ番組の延長戦みたいな形で、実際に顔を出しながら、ドワンゴさんと一緒に「パズドラの降臨戦」というゲーム実況の配信を始めました。

    ちなみに、なぜ当社の中で私が出演したのかというと、社内の全員がやりたくないと言ったからです(笑)。しかし、今、気づけば当時その場でやりたくないと言っていた人の大半がYouTuberとして現在活動しているのもまた事実です。

    そのような流れで、社内から「村井ちゃんやりなよ」という後押しの声が上がったものの、私はゲーマーでもなかったので、特段ゲームがうまいわけでもありませんでした。とはいえ、「やるからには、がんばっていくよ」ということで、努力を積み重ねた結果「マックスむらい」が誕生を見るに至ったのです。気づけば、累計で、8,000本以上動画をアップロードしていますが、基本的に体力勝負でした。

    ―素晴らしいですね。やはり日々の努力の結晶として、「マックスむらい」が確立していったのでしょうか。

    ただ、マックスむらいとして成長していったのは、それだけが要因ではないと考えています。当時は、PCからスマートフォンへの移行、テレビからYouTubeへの移行など、時代の流れが大きく変動していく渦中でした。その2つの市場に存在していたプレイヤーたちの交点に、ちょうどマックスむらいがいたのです。市場全体の力に後押しされ、ぽっと出の、クリエイターでしかなかったマックスむらいが急激に成長し、広く認知されていきました。決して私や、AppBank単体の力ではなく、あらゆるプレイヤーの生み出していった波が一つのうねりとなり、マックスむらいが確立していったと言えます。

    ―マックスむらいのヒットからは、順風満帆に、成長されていったのでしょうか。

    むしろ、マックスむらいとしての活動が本格化すると、それはそれで弊害がありました。動画にコミットするということは、時間の使い方が通常のビジネスパーソンと異なり、関わる人のタイプが一変し、当然クリエイターと関わっていくようになりました。今振り返ると、私の経営者人生にとっては、正直マックスむらいという存在が本当に異物でした。クリエイターとしての活動をすると、より良いものを追求していくようになります。ベターでいいよという発想ではなくベストを追求しようという考え方にはまってしまいます。そうすると、収支計算という意味において、全部の計算式が崩れるので、黒字になど向かえなくなってしまいます。例えば、今色々なクリエイターがD2Cを行う時に、パーカー1着を作ろうとなったとします。そうすると、いい生地を使う、オリジナルの何かを求め、原価率7割で、手元に残るのが1着販売して、800円ですというような、それでも全然いい!やりたい!という考えに陥ってしまいます。しかし、経営者目線で考えると、そのようなことをやっていたら会社がつぶれてしまいます。でも、クリエイターの目線ではそうなってしまうのです。より良いものをより安くというように。

    ―経営者としての立場、クリエイターとしての立場の両立は非常に難しい問題ですね。

    そうですね、2015年以降は、いったん社長から降り、クリエイターとしての活動に主軸を置いていたのですが、当時の社長は本当に大変だったと思います。経営会議に出ると、私は、経営者村井としての意見と、マックスむらいとしての意見を両方伝えていたからです。他の、クリエイター集団では、社外にクリエイターのポジションを置くというような対策をしています。そのくらいに、当時のAppBankの体制は、難易度の高かったのだと思います。その後、赤字が続き、2020年から再び社長として復帰したわけですが、もともと私は、新規事業を立ち上げても1年以内には必ず黒字にするということをずっとやってきましたので、赤字が継続しているという状況に対しては大いに危機感を持って取り組んでいます。

    経営者村井として振り切る~脱マックスむらい戦略とは~

    ―決算発表では、「脱マックスむらい戦略」を掲げていらっしゃいましたね。

    やはり、クリエイターを主軸にしてビジネスを展開していくと、その後の20年、30年先の成長を1クリエイターに委ねることになります。このように時代の流れが急速に変化する世の中において、クリエイター依存のビジネスをすることは非常にリスクが高い。したがって、「脱マックスむらい戦略」というものを掲げました。弊社では、ひと頃、マックスむらいの勢いが強すぎて、その他の事業に大きな影響を与えてしまいました。AppBankという上場企業に対して、私が株主だったら、誰かに依存している会社に投資したくないので、私自身の手でこの状況を打破し、自律的に成長していく会社へと変革していくのだという強い覚悟を示しました。

    ―そもそも、上場するに至った理由はどこにあったのでしょうか。

    会社とは上場するものだと考えていたためです。「社長や会社は器であり、社会に貢献していくための存在である。どれだけ雇用を生み出すのか、社会貢献とは何か、生きるとは何か」みたいなことを、社会人として初めて入社したガイアックスの上田社長が語っている様子をみていたこともあり、いつか私が会社を興すのであれば、プライベートカンパニーではなく上場するのが当たり前だと思って生きてきました。そのくらいシンプルな理由です。

    ―社会の公器であるという考え方ですね、そういう意味では貴社の理念である「You are my friend!」にはどのような意味が込められているのでしょうか。

    ライターとして、鎌倉に住んでいた頃、ポッドキャストをやっていたときに出会ったのが「You are my friend!」という理念です。ポッドキャスト自体は、Appleで1位をとるくらいに視聴者が多くて、何か曲が欲しいなと思い至り、知り合いのDJに曲をかいて欲しいと依頼しました。その時に、DJから出てきた曲のタイトルが、「You are my friend!」でした。「なにこれ?」と聞くと、「村井さんってこんなかんじじゃないですか?よくもわるくも、ジャイアンのようなところがあって」と言ってきたのです。実際、英語ではこんな表現しないのですが、よくよく考えていくと、このメッセージ自体、AppBankらしさにつながるなと感じたのです。私たちが進む道は、ここだ!と決めると熱中し、好きになり、楽しんでいるといつのまにか商売が生まれていく。iPhoneが販売された当初からずっとそうやって成長してきました。これから先、どんなサービスを作るにしろ、ずっと同じような役割を会社として担っていき、社会全体に価値を生み出していく。AppBankらしく、いいコーポレートメッセージだなと思っています。ここ数年は、ビジョン先行型が流行っていて、崇高なビジョンを掲げるケースも増えています。ただし、ビジョンでは飯は食えません。これだけ時代の流れが速い現代においては、何がきっかけでブレイクするのかわかりません。だからこそ、iPhoneがこれから伸びる、と思い熱中したあの頃のように、我々社員が面白いと思うものからビジネスの種を芽吹かせていくことができればと考えています。

    ―「脱マックスむらい戦略」を掲げ、社長に復帰されてからは、どのような対策を行ってこられたのでしょうか。

    赤字の会社には、負け癖がついています。楽しさよりも、稼ぐための動きを我慢して行っていく。結果として、自分たちが行っていることに矜持を持てなくなってくる。復帰直後には、社員に対して、「楽しくやろう、コンテンツに矜持を持とう」と伝え続けました。まずは、そこから再開し、少しずつ、足腰を鍛えていこうと。その根幹にある、「You are my friend!」は、いい理念だなと思っています。もちろん、B to Bのビジネスや、ランニング収益の、積み上げ型ビジネスで進めていくなら、人員整理などのやりようはありますが、うちの再建の仕方としてはそのように、社員一丸となって意識を統一し、会社や、ブランドに対して矜持を持つというところからのスタートでした。

    AppBankの挑戦~農業とアートで、共創型事業に転換~

    ―今後の事業の方向性としてはどのように進めていかれるのでしょうか。

    自分はどういう10年を過ごしたいのかと考えたときに、前の10年がスマートフォン・ソーシャルゲーム・動画の10年だったので、次の10年も、同じかといわれると、自分は絶対飽きてしまいます。市場自体が飽和しているので、楽しもうとみんなに言った手前、自分自身も楽しまないといけない。そんな中で、AppBankでライターを始めたときと同じように、時間・場所・人間関係をドラスティックに変えることで新しいチャレンジをしなくてはと考えました。

    次の10年は、農業とアートがテーマである、ということを2019年に決めて、それをどこでやろうかと考えている中で、アウトドア、農業だ、もっと言えばメイド・イン・ジャパンで、越境EC含め海外輸出までをねらうのだと思い立ちました。そこで、フィールドとなる山を探し始めて、ようやく見つけ、今、静岡沼津の山に月の半分くらいいます。

    西浦という町なのですが、そこは、日本で唯一海越しに富士山がみえる地域なのです。駿河湾を望んで、富士山が見える。そして晴れているときには、横に南アルプスも見えるという絶好のポジションでした。そこに惚れました。昔から富士山を背負って仕事がしてみたかったこともあり、何度か赴き、その場所に決めました。駿河湾のちょうど対面くらいに、徳川家康が居城していた駿府城という歴史的なお城がある場所です。その逆サイドに私たちは生活をしているのですが、ここから世界を望むにはいいのではないかと。それが去年の夏ですね。やりたいことは動画やアウトドアではなく、メイド・イン・ジャパンの商品開発をやりたい。その過程で、動画・発信はこれまでやってきたことなので、できるし、それは継続してやっていきたい。スマートフォンやソーシャルゲームの時とは、関わる人が変わるので、私たちは新参者だからよろしくお願いしますという立ち位置にいます。そして私は、新規事業は、1年以内で黒字にしたいという判断基準が昔から変わらず、意識的には強くあります。

    ―ここまで、生み出されている、製品としてはどのようなものがあるのでしょうか。

    「手むき究極のみかんジュース」や、「手作り竹炭」などを生産しています。みかんジュースについては、お隣さんを含めて、みかん畑のなかで活動しているため作り始めました。竹炭に関しては、借りた山の山頂に残留物として、竹炭を焼く窯がありまして。どうやら、もともと山には竹林があり、地元のNPOから、20年前に窯を寄贈されているようでした。これはぜひとも焼きたいと思い始めました。上場企業の社長が何してんねんという突っ込みが入ることは仕方ないと思っているのですが、事業を興すための1周目は自分で試したいというのが、私のやり方なのです。山に入って3ヶ月間は、ずっと草むしりをしていました。そして、竹炭の窯を使えるようになるまで、4ヶ月間失敗し続けました。その過程で、煙突効果などいろんなことを調べながら、年末にラッキーなことが起こりました。私は掃除が大好きなので、山にある小屋を掃除していたところ、古い棚から虫食いがされた状態の竹炭窯の説明書が出てきたのです。そうして、ようやく竹炭を作ることに成功しました。実際に竹炭を作ってみた後、製品試験を行ってみると、市場に出回っている海外産の竹炭とは品質が異なりました。脱臭効果や栄養成分が多く、美容製品や雑貨などの商品開発に生かすことができるのではないかと考えています。

    ―ここまで、メイド・イン・ジャパンの構想を実現するために動いてきて見えてきた展望があれば教えてください。

    竹炭だけでは広がりがないので、「黒」という切り口で発想を広げていきたいと考えています。竹炭が肝ではなく、黒というニッチなところをフックに、例えば、全国から黒いものを仕入れ、黒いショップを展開したい。直近では、炭フードブランド「友竹庵」のリリース、フルーツ大福を黒くするポップアップストアの展開、そして、食パンを黒くするという企画を走らせる予定です。実際に動いていてわかったこととしては、例えば、飲食店でいうと、基本、黒がNGなのですが、逆に言えば珍しくプロモーションにはつながるということ、コラボ機会があるならやりたいという声が非常に多かったことです。例えば白い恋人を黒くするなんて面白いと思っています。私は、そのように協力してくださる企業を、事業を共にする仲間だと思っています。したがって、参画される企業様からはコンサルフィー等は頂戴しません。通販の収益については一部頂きますが、基本的には一緒にプラットフォームを大きくしていくチームだと考えています。私共の組織規模では、営業部隊を強化して、事業を加速化していくというよりも、共に利益を生み出していくステークホルダーをいかに増やすことができるかが成長の鍵だと考えています。このプロジェクトで、月商2~3千万まではつくりたいですね。

    ―最後に、村井代表自身のありたい経営者像について教えてください。

    先述の通り、社長や会社は社会に貢献するための器だと考えています。したがって、自分がこうなりたいから、こうしたいとかはないです。ただ、現在は、社長である私が一番早く出社して、一番遅く帰っていることは社員に対しては申し訳ないと考えています。社員にとっては大きなプレッシャーに感じてしまうでしょうから。そういう意味だと、私は、人と話しているときに最大限のパフォーマンスを発揮するので、昼間は新サービスを考え、夜は連携できそうな方とコミュニケーションをとるという時間の使い方ができればベターかなと思います。

    それともう一つ、やはりクリエイターマックスむらいとして活動していた際の体験が大きすぎて、そこにとらわれているような気もしています。経営者としての目線で、心を鬼にして、利益率を計算し、合理的な人員配置を行っていくことができるようなドラスティックさを持ち合わせられるよう、しばらくは、マックスむらいとしての活動をジョギング程度に留めていく予定です。そして、当社としてAppBank.netの収益に加え、子会社のビーコンマーケティングなのか、炭フードブランド「友竹庵」なのかの予測は難しいですが、収益の柱が5本くらいたってきたころに、マックスむらいはまた復活できればと考えています。

     

    <プロフィール>
    マックスむらい - 村井智建(むらい・ともたけ)

    AppBank株式会社 代表取締役 CEO
    石川県出身
    1981年12月11日生まれ。起業家。2008年、iPhone3GSの発売後にいち早くスマホアプリ紹介に特化したメディアAppBankを開設。アプリの専門家としてテレビ出演多数。その後、パズドラやモンストといったソーシャルゲームの実況動画等で活躍。YouTubeチャンネルは再生回数が累計約20億回、登録者数約150万人。

    AppBank株式会社
    http://www.appbank.co.jp/
    本社 〒102-0093 東京都千代田区平河町2-5-3 Nagatacho GRiD 3階
    設立 2012年1月23日
    資本金 100,000千円(2021年04月01日現在)
    加盟団体 一般社団法人 日本インタラクティブ広告協会(JIAA)

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