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停滞する会社を持ち直す経営術 歴史上の中興の祖は何をしたのか?その1 上杉鷹山

経営ハッカー編集部

停滞する会社を持ち直す経営術 歴史上の中興の祖は何をしたのか?その1 上杉鷹山

「中興の祖」と言われる人がいる。
創業者や時の経営者に代わって傾いた組織を立て直し、再び浮上させた人々だ。それは往々にして創業者や時の経営者以上の艱難辛苦に苛まされる。創業者のようにゼロからのスタートではなく、マイナスからのスタートとなるからであり、時の経営者のように支持されているわけでもないからだ。
彼らは単にマネジメントに明るいだけでなく、危機に際しての胆力、統率力、そして忍耐力など高い人間力をもっていた。そうでなければ後々中興の祖として名を残すことはできなかった。再興再建へのチャレンジは古今東西いつの世にもつきまとっていた。ではなぜ数多の再興チャレンジャーのなかで、なぜ彼らだけが中興の祖と呼ばれるのか。代表的「中興の祖」の生き様からそのエッセンスをハックしてみよう。

J.F.ケネディが敬愛した上杉鷹山

現代にも通ずる傑出した中興の祖の代表が、江戸時代に米沢藩を立て直した9代目藩主、上杉鷹山(ようざん)だ。

鷹山の名は、日本の経営者の間に広く知れ渡っているだけでなく、世界的にも知られている。むしろ鷹山の名は、海外から逆輸入されたとも言える。

第35代アメリカ合衆国の大統領、J.F.ケネディは、日本に来日した際、「もっとも尊敬できる政治家は誰か?」という記者の問いに、「上杉鷹山」と答えている。オバマ政権時代に駐日米国大使を務めた娘のキャロライン・ケネディさんも、就任後東京で行ったスピーチでも父親が敬愛していた鷹山について触れている。また戦前フランスの首相を努めた、G=クレマンソーも、勧められて伝記を読み、多くのものを学んだと述べている。

J.F.ケネディが鷹山を知ったのは、内村鑑三が英文で刊行した『代表的日本人』だと言われている。ケネディが鷹山を評価したのは、鷹山が世界に先んじて民主主義の原点を唱えていたことにある。

人民があっての君主であって、君主のために人民があるのではない

そのエッセンスが鷹山が35歳の時に後継である10代藩主義弟の治広のために書き残した「伝国の辞」だ。
記されているのは、次のようなことだ。

  1. 国というものは、先祖から子孫に伝え残すべきものであって、現世の時代の人が私有すべきものではない
  2. 人民は国家に属しているのであって、君主が私有するものではない
  3. 君主たるものは、人民があっての君主であって、君主のために人民があるのではない

1751年に九州の小藩、3万石の高鍋藩主の次男として誕生した鷹山が米沢藩の藩主となって活躍した時代は、まだアメリカは誕生しておらず、ヨーロッパ各国で王政からの脱却を図る市民革命が起こっていた時代。しかし鷹山はこうした海外からの情報を得ることなく、民主主義的な思想を敷衍し、とりわけ封建色が濃い米沢藩でこの理念にたどり着き、実行したことは、特筆に値する。

600億円の借財と病弱な許嫁との結婚

鷹山が米沢藩再興のために行ったことは、数多くあるが、そのなかでも「三大改革」と呼ばれる政策が有名だ。

その1つは、「財政の再建」だ。実は江戸中期になると、全国では財政を悪化させる藩が続出していた。金銭感覚の疎い藩主の野放図な政策と圧政が、主な原因だった。

なかでも米沢藩は財政破綻寸前で、約20万両、現在の貨幣価値にして約600億円もの借金があったと言われている。事前にこの事情が伝わっていたら、果たして鷹山が米沢藩主を引き受けたかどうかは怪しい。それほどの金額である。

米沢藩はもともとは戦国時代の上杉謙信の血を引く名家で、全盛期には越後から関東一円を支配。その後関ヶ原の戦いで家康の敵方に付いたことで120万石に縮小、さらに江戸時代になってからは跡取りに恵まれず15万石まで減らされていた。ただ小さくなったとは言え、鷹山の出身である高鍋藩とは桁違いの名門藩であった。

高鍋藩6代目藩主種美の次男鷹山のもとに「その名門藩の藩主としてどうか」と養子縁組の話が舞い込んだのは彼が10歳の時だった。この不釣合いの縁組には米沢藩側からも異論の声が上がったという。だが当時の米沢藩は男子の跡継ぎに恵まれず、取り潰し寸前であり、藩としても背に腹は代えられない状況だった。

格の違う藩からの養子縁組に高鍋藩はこれを承諾する。
だが鷹山は縁組が決まってから米沢藩の内実を知り、驚愕する。財政は破綻状態であり、しかもまた許嫁となる米沢藩主の娘、幸姫(よしひめ)は病弱で、言葉もうまく発することができない、いまでいうところの小児麻痺のような身体だったと言われている。

しかしこの病弱な幸姫と触れ合ううちに、その健気な態度に打たれ、「この藩を改革できなければこの家はお取り潰しとなり、か弱い姫も殺されてしまう。それはさせてはならない」という強烈な思いが芽生えてきたとも言われている。
鷹山が家臣団からの激しい抵抗に遭いながらも、大改革を成功に導いた原点はこのか弱き姫への愛情にあった。

孤独に神に誓った「藩の大倹約と再興」

鷹山は17歳で元服すると幸姫と祝言を挙げ、その翌年、米沢藩の再建のための誓詞を、米沢の春日神社と白子神社に奉納している。

そのなかで鷹山は、藩主たるもの「民の父母」であらねばならないという誓いを記している。さらに白子神社に奉納した誓詞には、「大倹約を行い米沢藩を復興させる」という決意を残している。鷹山の決意が並々ならぬものであったことが伺えるのは、これが発見されたのが90年以上も経ってからだったことだ。家臣の誰にも知られず、元服を迎えた若き藩主が、ひっそりと神と誓いを立てて再興に臨んだ姿が鮮やかに浮かび上がるようだ。

ことほど左様に柱となる財政改革は命に替えても成し遂げなければならない重大施策だった。
鷹山はこの誓詞通り、すぐさま大倹約令を発令する。その内容は次のようなものだった。

  1. 従来の行事のなかでも差し迫ったものを一切廃止する。あるいは延期する。あるいは規模を縮小する
  2. 参勤交代の行列を思い切って減らす
  3. 住居における修理や調度品の調達は、極力差し控えること
  4. 食事は一汁一菜とし、盆暮れのみ一汁二菜とする
  5. 衣服の普段着は木綿とすること
  6. たとえ安い品物でも音信贈答は禁ずる
  7. 藩主の奥女中は召使とも9人とする

江戸の米沢藩邸での藩主の生活費をおよそ7分の2とし、日常の食事は一汁一菜、普段着は絹の着物から木綿に、奥女中も50人から一気に9人に減らすという「荒療治」に、早速守旧派の重臣からは、米沢藩の体面に関わると強い反対が起こったのは当然のことだった。
しかし、鷹山はそれらを一切受け入れず自ら率先して節約を実行する。

1773年には、そんな鷹山に隠居を迫る事件、「七家騒動(しちけそうどう)」が起こる。

7人の家臣が鷹山に対し、「倹約令をはじめとする政策は、藩士の面汚しなので即撤廃してもらう」ことや、よそ者である鷹山に「これ以上藩政に関わること止めてもらうこと」を迫ったのだ。

この時の押し問答は4時間に及んだ。鷹山はこれを徹底して拒否。部屋を後にしようとする。しかしこの時、家臣の一人が袴の裾を踏むという、武家社会にとって侵してはならない一線を超えてしまう。
これを聞いた養父重定が激怒。守旧派の処分を決める。結果2人が切腹、1人が打ち首。その他が隠居、幽門などの厳罰に処せられた。

この一件以降、少数派だった改革派が勢いを増し、鷹山の改革が進んだとされているが、家臣が裾を踏まなければ、その立場は危うく鷹山は不遇の死を遂げたかもしれないとも言われている。

そもそも藩の莫大な借金の一因は、藩が改易され縮小していくなか、藩士をリストラせずに据え置いてきたことが主因だった。15万石高の藩に50〜60万石に相当する約6500人もの藩士を抱えていたのだ(諸説あり)。藩士を抱える諸費用は実に財政の85%を占めたという。領民のため、藩の生産力、文化向上に使う余力どころか、借財の繰り返しになることは当然だった。

藩士を農村に住まわせ新田開拓を奨励

三大改革の2つめは、「新産業の開発」だ。当時の米沢藩には、特産品らしい特産品はなかった。そこで他国との差別化を図る方策として、焼き物から木彫り彫刻、織物までさまざまな産業を特産品化していく。

考え方も分析的で、米沢でできるもの、できないものを分け、付加価値の付くものを選んで特産化した。
たとえば次のようなことだ。

  1. この地方は北限があり、生産できないものは無理につくらない
  2. 北限の適用を受けるのは、木綿、茶、みかん、はぜ(ローソクの原料)など。しかしこれらは生活必需品なので輸入する
  3. 輸入するためには、この地方でできるものに付加価値をつけ、高付加価値化する必要がある
  4. そのためには新しい農業開発を行わなければならない
  5. 現在米沢藩で、製品と名付けているものが、果たして製品なのかどうかを振り返る
  6. たとえば、米沢から輸出してる麻糸は大和(奈良県)においては、晒に加工されて、越後(新潟県小千谷地方)では、小千谷縮みとして名産品となっている。そういう技術を導入して新たな付加価値を加えた製品をつくるべき

などといった具合。こうした特産品の高付加価値化に加えて、鷹山は藩の財政を安定させるために、新たな田畑の開墾や治水を勧めていた。鷹山が傑出していたのは、農民だけでなく藩士に対しても田畑の開墾や治水のための土手修理を実施させたことである。なんと、藩士の次男・三男が農村に移り住み、田畑を開墾することまで勧めたという。これはある種、徳川時代の身分制度をも否定する政策で、鷹山はまさに命を賭して臨んでいた。この時新田の開拓に参加した武士はのべ1万3000人とも言われている。
 
また鷹山は藩内に楮(こうぞ)、漆(うるし)、桑(くわ)など、それぞれ100万本の植物や樹木を植えて、産業化を進める「百万本植え立て計画」を打ち出す。これらのうち養蚕業はほぼ成功し、産業競争力を高めた。また漆からつくったローソクも江戸で大ヒットした。

第2次大戦中の米沢市民の命を支えた究極レシピ『かてもの』

鷹山らしさが出ているのは、飢饉に備えて『かてもの』という究極のレシピ集を編んだことだ。その対象となる植物の種類は80にも及び、さらに味噌や魚、肉の保存方法を実際に専門家が試しながら著したと言われている。「かてもの」は、藩内で1575冊が配布され、その後たびたび襲った飢饉では、犠牲者をほとんど出さずに済んだ大きな要因となったとされる。それだけでなく、時代が下った第2次大戦の最中、食糧難にあえぐ市民のために、米沢市がこれを印刷して配布。市民の食料不足や栄養失調の対策としていた。鷹山の民を思う心は世紀を超えて、米沢の市民を救ったのである。

先進の介護休暇制度「看病断」

三大改革の3つめは「精神の改革」である。
鷹山は民の父母になるために、領民に3つの助け合いの指針を示している。

  1. 自ら助ける「自助」
  2. 近隣社会が互いに助け合う「互助」
  3. 藩政府が手を貸す「扶助」

の3つである。

ここでも従来の武士と農工商という身分を超えた関係性が見て取れる。藩と庶民がお互いの言い分や権利を主張するのではなく、互いに助け合う存在であることがわかる。

鷹山の発想は、藩士と農民といった縦軸だけでなく、近隣や近くの集落といった面の軸、すなわち藩士と農民で足りない時は、身分を超えて藩全体で助け合うことが必要だとしたことに独自性があった。鷹山はこの縦軸と面の軸を融合し、さまざまな制度をつくっている。

その1つが、「看病断(かんびょうことわり)」という制度である。これはいまでいうところの介護休暇制度で、藩士の家族が病に倒れた場合、その看病に届出だけで休んで看病してよいという制度。さらに鷹山は、一人暮らしの老人や、病弱な家族がいても家族の面倒を見ることができない幼い子どもの家庭などにも、地域単位で相互に支え合うような仕組みを制度化している。

鷹山はさらに未来という時間軸からも助け合いを考えている。将来の飢饉に備えて20年間で15万俵という米の備蓄計画「備籾蔵(そなえもみぐら)」制度を整備した。これは、毎年農民から収穫した米を、籾のまま地域毎の蔵に備蓄させ、その籾に対して藩が利息をつけて返す仕組み。災害時の備蓄だけでなく、いわば今日でいう地方銀行や信用金庫の役割を果たしていた。

こうした政策の最中、1782年から88年まで天明の大飢饉が東日本から北日本を襲う。米沢藩は収穫が2割まで落ち込んだ。備蓄制度は十分完備されていなかったが、鷹山は早い段階で飢饉を予測し、比較的被害の少なかった酒田や越後諸藩からの買い入れを行い、そこから粥をつくり、藩士・領民の区別なく、一日あたり、男米3合、女2合5勺の割合で支給して食べさせたとされる。こうした施策の根底にも鷹山の「民の父と母」としての一貫した姿勢が見てとれる。

35歳で引退、さらなる改革のステージへ

だが鷹山の改革は決して順調に進んだわけではなかった。

たとえば百万本植え立て計画では、漆でつくったローソクは始めのうちは順調に販売額、西日本から櫨はぜを使った着火の良い安価なローソクが出回ると市場から駆逐され、100万本の投資は、やがて借金に変わっていった。

また徐々に財政が改善されてきた頃に天明の大飢饉が藩を襲い、石高を一気に落としてしまう。減った借金も30万両まで増やしてしまった。こうしたこともあって鷹山は35歳で引退した。しかしながら専門家の見立てでは、ここから鷹山の本当の改革が始まったとされる。より身軽となって、藩の各地を観て回ることができるようになったからだ。

鷹山はほかにも、藩校をリニューアルして分校を充実させ、より通いやすくして藩の住民のリテラシーを上げた。米沢藩では農民のほとんどが読み書きに不自由しなかったというから驚きである。
鷹山は近代福祉制度の先取りをした人物でもあり、その功績は現代にもつながっている。

先の看病断などがその例だが、ほかにも老人と15歳以下の子どもを持つ家庭には補助金を支給する制度をつくっている。また高齢で働けず、肩身の狭い思いをしていた年寄りたちには、藩内に多い池や沼を利用して鯉の養殖を推奨した。この施策は同時に栄養不足になりがちな領民の新たな栄養源にもなった。

養父の重定の古希には、藩内の70歳以上の老人に酒樽を振る舞い、自身が古希を迎えた時にも振る舞っている。重定の時に738樽だった酒樽は、自身の古希では4560樽まで増えていた。鷹山の施策によって荒れた農村に人が増え、長命の領民が増えた証である。

「民が傷ついたら、我が身のこととして感じ取るのが君主」

鷹山は、2007年に読売新聞が全国の自治体首長に聞いた、「理想のリーダー」のトップに挙がっている。

鷹山が魅力的なのは、運命に翻弄されながらも、それを正面から受け止め、誰よりも藩の領民のことを自身のこととして捉える高い共感力があったからだろう。

それはやはり10歳で出会った幸姫の存在が大きい。鷹山は幸姫から学んだ、か弱きものへの眼差しと優しさが、米沢藩の治世の原点となった。鷹山は、江戸の藩邸にいる幸姫に逢いに行った際には、言葉のおぼつかない彼女と、人形などを手にして、それこそ童心に返ったようにして遊んだと言われている。

さらに江戸で14歳から元服までを指導した儒学者・細井平洲の教えの影響も大きかった。

細井はまだ幼さの残る鷹山に対して「民が傷ついたら、それを我が身のこととして感じられないようでは、藩主の資格はありません」と繰り返して説いたという。

米沢藩の借金が完済されたのは1823年。鷹山が72歳でこの世を去ったその翌年であった。鷹山はまさに生涯を賭けて米沢藩再建を完遂した。

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