幸せが欲しいなら、幸せを求める代わりに「不幸な働き方」を取り除けばよい
こんにちは、シックス・アパートの作村(さくむら)です。ひとつのことを年がら年中考えてると足りないことが見えてきて、それを解決できる製品やサービスを作りたくなりますよね? というわけで新製品を作りました。既存のネットワーク構成のまま「置いて挿して繋げる」だけで簡単に自宅とオフィスのVPNを開通する「SAWS VPN」を11月7日にリリースしました。
さて、この1ヶ月、「幸せとは何か」を考えていました。ネット上に量産される(本連載も含む)働き方改革やテレワークの記事に目を通すと、新しい働き方の目標として「幸せ」を掲げる企業が増えていることに気が付きます。「幸せ」を目標に掲げることは悪いことではないことは本能的にわかりますが、各社が揃って同じ目標を掲げることに一抹の不安を覚えます。
もしかして、私たちの考える「幸せ」が勘違いだったり、思い込みだったり、幻想だったら、「幸せ」以外の何を目標にすればよいのでしょうか。
本稿では、この頃読んだ本を総動員して「幸せの正体」に迫ってみます。「幸せ」の定義は難しいですが、「幸せ」でない状態を知ることで消去法的に「幸せ」を知ることができます。石のサイズの定義を知りたいなら石の体積を調べるのではなく「岩より小さく、砂利より大きいのが石」といった具合です。
つけ麺大盛り無料はGDPを増やさない
序の口として、GDP(Gross Domestic Product:国内総生産)が高い国は幸せの国といえるのかを考えてみたい。ベーシックインカムについて先行研究書でもあるルドガー・ブレグマンの「隷属なき道」によれば、GDPはロシアで生まれてアメリカに移住・帰化したクズネッツ教授が80年前に考案した「自国の戦力を測る物差し」だそうだ。彼の国より我が国のGDPが高ければ勝算ありといった具合だ。戦時の指標であったGDPが今では国の豊かさを測る物差しとて使われている。それはそれでいいとして。
たまに食べるつけ麺は最高に美味しいと思う。一杯780円くらいが相場だろうか。一杯780円のつけ麺をわたしが食べるとGDPが増えると共にわたしは幸せを感じる。しかし、どのつけ麺屋にもだいたい置いてある券売機の食券メニューをよく見ると、並盛り・大盛りの料金はたいてい同じだ。並盛りより大盛りの方が麺も幸せも1.5倍なのにGDPの増加量は並盛りも大盛りも同じだ。従って、GDPが幸せの量を正しく反映しているとは言えない。
つけ麺という身近な例1つで、幸福感はGDPでは測れないことがわかる。
つけ麺だけでは論拠として心もとないので、もう少し考えてみる。
家族として機能している家庭だ。子供の教育を親が自ら行い、商業施設には頼らない家族だ。こういう家族の活動はGDPに反映しにくい。平日は子供を習い事に通わせ、週末は商業施設で遊ばせる家族と、自分でできそうなことは家庭内教育を進めて、週末は公園などで自然とふれあいながら子供と過ごす家族。どちらが幸せに見えるだろうか。
自宅の掃除を自分でやっても掃除代行業者にお金を払ってもいい。ココでは良し悪しは論じない。自分でやればGDPには影響しないが(もちろん掃除道具の購入代金はGDPを増やす。ダ○ソンの掃除機なら大きくね。)、掃除代行業者に頼めばGDPが増える。ココで言いたいのは自分で自宅を掃除することはGDPを増やさないが確実に快適度は上がるということ。つまり、GDPは増えないけど幸せを感じる。
この項の最後に。東日本大震災以降のGDPの変化を見ていただきたい。2011年は471兆円と前年より11兆円も落ち込んだが、2014年には486兆円に回復。2015年は499兆円に達した。たった3年で回復から良化している。大災害は不幸を増やすとともにGDPを増やすことがわかる。
>> GDPは震災前回復も「日本再生」実感遠く(産経ニュース)
「幸せ」と記憶の関係
前回の記事でも紹介したダニエル・カールマンの「ファスト&スロー」を読んで、今、楽しいと思うことと、あのときは楽しかったと思い出すことは、別物だと知ったとき目からウロコが落ちた。確かにつけ麺を食べてるときのことを思い出しても幸福感を覚えない。
現在の自分「あの頃は幸せだったのかな~?」 過去の自分「うん、幸せだったよ」 現在の自分「そうか。幸せだったか」
過去に感じた幸福は、記憶する過去の自分への問いかけだった。 小学校時代は楽しい思い出ばかりだが、細かく思い出すと、苦手な科目の授業や苦手な給食の日、態度が豹変するクラスメイトへの困惑。楽しくない思い出もたくさんある。人間の脳はピークエンドの法則といって、”一番楽しかったこと”と”最後の記憶”しか残らないらしい。
経験する自己と記憶する自己は別物だ。
もし、いま、通勤ラッシュの電車内で揉みくちゃにされながらこの記事を読んでくれてる人がいたら自分の胸に手を当てて自分に問いかけて欲しい。
「いま幸せですか?」
薬による幸せは、成長プロセスの放棄
「幸せを感じる」とはなんなのか。生理学的に考えてみたい。幸福感は、脳内のニューロン、シナプスが生成するセロトニンやドーパミン、オキシトシンのようなさまざまな生化学物質からなる複雑なシステムによって決定される。
嬉しいこと楽しいことが起こると、セロトニンが分泌されて幸福感を覚える。しばらくして幸福感は、元の設定点に戻る。
セロトニンは自己の体験以外でも増やすことができる。抗うつ剤とよばれる薬だ。アメリカでは3,000万人がプロザックを服用しているらしい。彼らが陽気な理由の一端を垣間見ることができる。
米国人にとって抗うつ剤はキャンディも同然?――日常化する服用(日経ビジネスオンライン)
単に幸福感を求めるなら薬に頼ればいいことがわかった。 嫌なこと、苦手な人から受けるストレスは薬で解消できる。薬による解決を問題視するのは簡単だが、幸福感がセロトニンの分泌量で決定される以上、その行為を否定できないだろう。
それでもしかし、薬によってストレスを解消してしまうと、ストレスの原因を試行錯誤して解消しようと思わなくなる。これは人間としての成長プロセスの放棄だ。成長プロセスとは進化論的な試行錯誤のことだ。疑問を持ったときに、それを問いかけないことは成長の終わりを意味する。成長の放棄は幸せと言えるだろうか。言えないだろう。
ミケランジェロを訪ねる
傑作と名高いダビデ像の造り手のミケランジェロに、ときの教皇は尋ねました。
教皇「わしも彫刻を始めることにした。ついては、ダビデ像のような素晴らしい作品の作り方のコツを教えてほしいんだが」
ミケランジェロ「ダビデっぽくない部分を取り除くだけです」
教皇「え?」
ミケランジェロ「ダビデには不必要なものを取り除いていくとダビデが生まれるのです」
教皇「そうか。作りたいものがあっても、それを直接求めてはいけないのか。ならば、働き方の幸せも同じことか!」
ミケランジェロ「そうです。幸せが欲しいなら幸せを求めてはいけません。不幸な働き方を取り除けばいいのです」
教皇「あいわかった!」
こんなやり取りはなかったと思いますが、ミケランジェロがいまの日本の労働環境を見たらきっとこんな助言をしてくれたとおもいます。
人間の心は様々な感情が入り混じっている。100%ポジティブにもならないし、100%ネガティブにもならない。ポジティブな感情がネガティブな感情を上回るとき幸せを感じるなら、その逆が不幸せだ。ネガティブな感情を少しずつ減らしていくとネガティブな感情をポジティブな感情が上回り、きっと幸せを感じるはず。