1977年に起業した74歳のオトンに、どんなキャリア人生を歩んできたか息子がインタビューした(後編)
実家に帰省した際に、40年間一つの会社を経営し続けてきたオトンに「仕事人生を振り返るインタビュー」をさせてもらった前回からの続きです。
どうでもいいですが、写真の奥に立っているのは専業主婦歴46年のオカンです。@実家の食卓
どんな注文でも「できます。やります」とハッタリをかまし続けたオトン
――ひょんなことって、なにが起きたの?
たまたま飛び込んだ建築会社で、なぜか”事務用品業者”に間違われて、応接室に通されたんだ
――相手が勝手に勘違いしてくれた、と
話をしているうちに、お互い”なんか違うぞ”って気づいて、そこでマンション管理の会社だと説明したんだ
――ふんふん
そしたら、会計管理のサービスには興味を示してくれなかった代わりに、”消防設備の法定検査とか、排水管の清掃はやってくれないの?”って訊かれたわけ
――会計サービスを売りにしているんだから、”頼む相手が違う”と答えることもできたけど?
とっさの機転で、”あぁ、できますよ”とハッタリをかました。法定検査も清掃工事もなんにも知らなかったが、そこは勢いで(笑)
――何が幸いするか、わかんないもんだね
どんな注文でも、”できます!やります!”って請け負って、その後で知人業者から知識を仕入れて、そっちにドンドン仕事を回してあげた。それが初めての売り上げだ
――最近起業したばかりで~とか言わなかったの?
口が裂けても言わん。自信満々を装った
――予想外の方向から突破口が見えてきたんだ
ちなみに、法定検査や清掃工事をお願いした業者さんとは、40年経ったいまでも取引が続いているのは密かな自慢だぞ
――じゃあ、起業してしばらくは、想定外の注文をさばくことで売り上げを立てていたんだ
そうだ。お金を頂戴できたのは、起業して4か月目だった。で、どんどん忙しくなっていき、”マンションの管理人さんを派遣してくれない?”って新しい注文が届いた。そこで、新聞に求人広告を出してみた
※当時の日給を見て、時代を感じる。(いまだに切り抜きを保管していたことにも驚き)
起業した初年度の年収は100万円(※月収ではない)
――そんなんで、人が集まるのかな
1人の募集に、20人やってきた。事務所の前に行列ができたよ。それが、初の社員採用だったな
――ちなみに、起業した初年度の売り上げってどんなものだったの
(手元の手書きメモを見ながら)えーっと、最初の年の売り上げは……1,100万円だった。年収は100万円。最初の4か月は無給だったことを差し引いても、かなり安かったなぁ
――無給の間は、貯金を切り崩しながらやりくりしてたんだ
たいして蓄えもなかったから、母さんは苦労したと思うよ
――会社を立ち上げて間もないころは、「子供らには、モヤシしか食べさせてやれなかった」なんて話は、オカンから聞いたことがある
当時の食卓はそんなだったよ。お前は軽い栄養失調気味だった(笑)
――でも、事業は徐々に軌道に乗っていった
うむ。創業7年目の42歳のときに一大決心して、会社をでかくしようとしたんだ。社員をどんどん雇って拡大路線に舵を切った
――ついに!
結果からいうと失敗だった。従業員同士がケンカしたり、いがみ合ったり、社員が増えすぎて目が行き届かなくなってしまったんだ
――でも、売り上げや利益は出たんでしょ
売り上げは伸びたが、余計な苦労も同じく増えたし、出ていくお金も増えた
――人をたくさん雇うと、本業に直接関係ない労務管理が悩みのタネになるよね
設備投資もしたな。当時1千万円かけて会計システムを構築したり、1台100万円もするワープロも導入した。当時はワープロが100万円もしたんだぞ
――ひゃくまん……
まあ、じゅうぶん元は取ったからいいんだけど、会社を拡大させることが果たして正解なのかは悩んだ。最終的に規模はやや縮小させて、父さんが管理できる規模で経営することにした。その方針はいまも続いている
――身の丈に合った経営というヤツやね
そう。欲をかかずに仕事しようって思ったわけだ。それに、ちょっと多めに儲かったところで、税金で持っていかれるしさ。それが43歳のときの8期目だった。そういえば、このタイミングで会社を株式化したよ
取引先への支払いは、『月末締めの、翌月九日支払い』に決めたオトン
――起業して8年が過ぎたってことは、まあ会社はそれなりに安定してた時期だよね?
同時期に起業した何人かの知人のほとんどは、撤退していた気がする。1年目、3年目、5年目・・・といった具合に、節目を乗り越えられたのがよかった
――長年にわたってビジネスを続けてこれた理由って、なんだと思う?
さっきも言ったが、ひとことで表すと”バランス感覚”だな。経理と営業の両面を理解していたからだと思うぞ。経営者は、両方できたほうが絶対にいい
――経理の専門家を雇えばいいじゃん”って考え方もあるけど?
それは間違いではないんだが、経営者がお金の管理をできない&知らないのはマズい。経理の間違いやごまかしを見抜ける眼力は備えていなくちゃ、経理の言いなりになってしまうだろ?不正の温床にもなってしまって、いいことは一つもない
――なるほど
あと、経営者が数字をわかっていると、銀行とも仲良く付き合うことができる。銀行との付き合い方ってむちゃくちゃ大事で、銀行は経営者をしっかり観察しているからな
――信用の積み重ねはすごく大事だろうね
一度でも滞納したら信用を失うから、返済はきっちりやったぞ
――最大で、毎月どれくらい返済してたの
1億3千万円の借り入れがあったときは……月700万かな。我ながら、そんなことよくやってたなと思う
――よそ様から信頼を得るために、どんな工夫をしていたの?
取引先への支払いは、『月末締めの、翌月九日支払い』って決めている
――ふつう、翌月末とか25日払いだけど、どうして九日に?
早いほうが相手もうれしいだろ?初めは10日支払いにしていたんだけど、10日っていろんな納付日が重なる日だから、銀行が混雑する。じゃあ、その1日前に支払おうって考えた
――そういうマイ・ルールなのね
相手が驚くくらい前倒しで支払うことで、信用にもつながる。それと、あまり大きな声では言えないが、金払いの良い会社の頼みなら、急な仕事でも受けてもらいやすいだろ(笑)
――なるほど、そういう効果もある、と
人とちょっと違うことをして、差をつけるように心がけてはいる
「会社をつぶしたくないから」と、ベッコウの置物を大切に保管するオトン
そうやって取引先を大事にしているから、40年経ってもビジネスパートナーであり続けられるのか
目先の儲けだけにとらわれず、末永くお付き合いができるように仕事するのは、ビジネスの基本だと思う。ところで、このベッコウでできた船の置物なんだが……
――デスクの後ろに置いてあるヤツね
これは父さんが会社設立して間もないころに、知人から買った置物だ。けっこう古いものだよ
――なぜにいまも大事に持ってるの?思い出の品なの?
その知人は、父さんが起業したのとほぼ同じタイミングで骨董品販売のビジネスを立ち上げたんだ。ご祝儀替わりに付き合いで買ったんだが、その人は半年で会社をつぶした
――あらま。ぜんぜん売れなかったのかな
いや、そこそこ滑り出しはよかったみたい。ただ、ビジネスの調子が良いときに、入ってきた金をすべて儲けだと思い込んで豪遊して、資金繰りを誤った
――間接経費とか税金についての知識は…?
まったくなかったようだ。『ちょっと調子が良くても、いい気になってはだめだぞ』と自分を戒める意味で、40年近くたった今もオフィスに飾ってあるんだ
――人の振り見て、我が振り直せってことか
そういうこと
――で、会社設立して10年経ってころ、四日市から名古屋に引っ越したよね。俺が中2の時だったのを覚えている
父さんが44~45歳くらいのときだったな。毎日、高速道路を運転して名古屋と四日市を往復するのに疲れてきてた。仕事量も膨大で、家に帰れずにサウナに泊まってた時期もあったしな
――東京で働いているとわかるわ。通勤時間すらもったいないって感じるよね
時間がもったいなかったこともあるが、自動車通勤だと、交通事故のリスクもあるだろ?
――たしかに。通勤を何とかしたいってことで、引っ越しを決めたのね
しかも、月々の高速代とガソリン代で10万円かかった
――それ、そのまま住宅ローンに充てられるよね
だから20分で通勤できる場所に家を買ったわけだ。そこが今の実家になる
営業は、“運・鈍・根(うん・どん・こん)”だと断言するオトン
――時間をいかに効率的に配分するかってことに、腐心した結果の引っ越しなのか
そのおかげで生活環境はいくぶんか改善され、体調もよくなった。ちなみに、起業してからただの一度も病気になったことはない
――まじで?ただの1回も?
63歳のときに前立腺ガンの手術で入院するまで、1日たりとも体調不良で仕事を休んだことはない。つまり、35歳で起業して63歳になるまでの28年間、病気ゼロ
――すごい。ふつうのサラリーマンでそれができている人って、まずいないと思う
経営者に風邪をひく資格はないってことだ。緊張感のおかげかな。ただし、息抜きは適度に入れて、ストレスをためないように意識している。過労で倒れなかった原因は、ストレス発散ができていたからだと思う
――オトンのストレス発散って、ゴルフだっけ
あと、旅行な。無理してでも旅行のスケジュールはねじ込んだよ。従業員にはそのぶん苦労させたけど
――それ以外に、ストレスにやられないコツってある?
人を恨まない、細かいことで怒らない、つまらないことでクヨクヨしない、過ぎたことは気にしない、負の感情を翌日まで引きずらない……かな
――起業直後は仕事がゼロで、途方に暮れて、仕方がないから映画館で時間をつぶしたときも、折れなかった?
つらかったよ。相談相手もいなくって、全部一人で抱えるしかなかったしな。でも、メンタルが折れはしなかった
――何がよりどころになったんだろ。勝算でもあったの?
営業は、”運・鈍・根(うん・どん・こん)”なんだよ
――ウンドンコン?
証券会社時代の営業時代に上司に教わった言葉だ。運(ウン)は読んで字のごとく、時期とかタイミングって意味。ただ、運は待つものではなく、行動する者にこそ訪れるって意味合いも含むよ
――ドンは?
鈍感のドンだ。些細なことでへこたれない図太さを持てってこと。神経質になりすぎたらあかん
――コンは根性かな
そうそう。なかでも大事なのは運と鈍の2つって習った。無我夢中で行動しまくってたら、実際に道は拓けたしな
――もう3時間近く話しているけど、最後になんか言いたいことある?
……お金がないと、人って上から目線で接してくるもんだ
――バカにされるかんじ?
相手に悪気はないんだろうけど、言葉と態度に現れると、こっちは敏感に感じ取ってしまう
――焦りがあった?自分を卑下したりした?
ぜんぜん。いつか逆転してやるぞって心の中で思ってた。最後に勝つのはこっちだってな。まあ、人様と自分の人生を天秤で測る意味なんてないが、心意気の問題な
――今年で74歳だっけ。まだ働き続けるの?引退しようとは思わないの?
ずっと働いて、現役でい続けたい、仕事したいって意欲はまだ消えていないよ
――身体に気を付けて、無理せず働いてください
インタビューを振り返って
以上、40年間経営し続けるオトンの、けっこうリアルで生々しい、でもためになる話でした。
こういう真剣な仕事の話って、職場の仲間や上司&後輩とはふつうにするものですが、肉親とこそ、話し合うべきテーマなのかもしれません。
明日からのゴールデンウイーク、ご実家に帰省された際に「ねえねえ、どんな仕事しとったん?」と口火を切ってはいかがでしょうか。
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