「事業承継はカッコ悪い」って思ってない? ~ 【前編】与えられた役割から自分らしさを探していこう ~
竹内香予子社長、そして平安伸銅工業とは!?
皆さん、「つっぱり棒博士」をご存知ですか?
冷蔵庫から玄関まで、長短や種類の異なるつっぱり棒を巧みに使い分け、日常の暮らしで生まれる収納へのプチストレスを解消し、スペースを自由自在に確保する活用術を日夜研究。NHK「あさイチ」や日本テレビ「スッキリ」で放送されるなど今注目の存在です。
その「つっぱり棒博士」である竹内香予子さん。現在は平安伸銅工業という創業65年を超える老舗企業の3代目社長を務められていますが、入社前は新聞記者をされていました。
今回は、新聞記者だった竹内さんが何故2代目であるお父様の後を継ぐことを決意したのか?そして入社後に知った衝撃的な売上げの下落からの苦悩。そこから立て直し、「LABRICO」(以下、ラブリコ)や「DRAW A LINE」(以下、ドローアライン)など大ヒット商品を生むまでの試行錯誤。最後は平安伸銅工業の今後の取組みについてまで幅広くお話しいただきました。
最近メディアで報道される機会が増えてきた「事業承継」。2020年頃には、数十万人の団塊世代の経営者が引退時期にさしかかると言われています。その中で、竹内社長のように、若手後継者が家業の経営資源を活用しつつ、新規事業など新たな領域に挑戦するケースを「ベンチャー型事業承継」と呼びます。人口減少で労働集約型産業の継続がますます厳しくなる中小企業が生き残るためには、新しい挑戦を通じて、社会に新しい価値を提供しようとする姿勢が欠かせません。
今まさに事業承継で苦労している方、今後事業承継を予定している方の背中を押してくれるような、竹内社長による平安伸銅工業の復活秘話を3回に分けてお伝えします。
突っ張り棒のトップシェアメーカー、平安伸銅工業の三代目社長。代替わりを期に、新マーケット創造とブランド力強化を目指し、組織改革や新製品開発に取り組む。当初突っ張り棒は「オワコン」だと思っていたので、お片づけ専門ウェブメディアを立ち上げたり、思い出の品専用の収納ボックスの開発をしたり、果敢に新事業に挑戦するが成功に至らなかった。しかし、今一度自分たちの強みに立ち返ってみると、突っ張り棒がいかに機能的で生活に役立つものか魅力を再認識する。現在は、突っ張り棒の特徴を活かした新製品「ラブリコ」や「ドローアライン」の開発に携わる傍ら、突っ張り棒の正しい使い方や意外な活用術を「突っ張り棒博士」としてメディアにて発信している。元産経新聞記者。
平安伸銅工業株式会社
1952年創業。アルミサッシの量産で、日本の戦後住宅復興に貢献。1970年代後半からは、都市部でのマンション需要の増加に注目。ネジ釘要らずで収納空間を増やすことが出来る突っ張り構造のアイデア商品を多数開発した。創業から「アイデアと技術で暮らしを豊かに」を社是とし、時代に合わせて暮らしを豊かにするアイテムを世に送り出している。
http://www.heianshindo.co.jp/
平安伸銅工業における「ベンチャー型事業承継」の軌跡
2010年1月 竹内社長入社
2014年6月 お片付けのノウハウを集めたウェブメディア「cataso」(カタソ)を発表
2015年1月 女性起業家ビジネスプラン発表会「LED関西」ファイナリスト
2015年10月 大阪府ベンチャー企業成長応援プロジェクト「Booming!」選抜
2016年8月 女性や家族が楽しめる安全で手軽なDIY商品の「LABRICO」(ラブリコ」)を発表(2016年度グッドデザイン賞を受賞)
2017年4月 便利グッズだった突っ張り棒を、暮らしを豊かにする「一本の線」として再定義した「DRAW A LINE」(ドローアライン」)を発表(2017年度グッドデザイン賞を受賞)
求められる役割で新しいやりがいを探そう。決算書を見ずに入社を決断
——お父様が経営されていた平安伸銅工業に入社するきっかけを教えてください。2009年にご両親から入社を打診されたそうですが、率直にどんな気持ちでしたか?
私は前職が新聞記者でしたが、入社3年目に会社との関係が上手くいっておらず転職を考えていたタイミングでした。
ちょうどその時、父の体調が少し悪くなり「会社を手伝って欲しい」と両親から相談されたタイミングと重なったんですね。私が新卒で入った会社で自分の役割を見失っている時期だったので、「甘やかされている?親心で楽な道に手を差し伸べている?」と情緒的に受け取って反発心がありました。
記者の仕事が順調な状況だったら、フラットな気持ちで親の相談を判断できたと思いますが、今の仕事が嫌で逃げ出したいと思っている時に「余計なお世話だ」と思いました。
——複雑な心境の中で誰かに相談されたり、事業を継ぐ可能性があるということで、何か勉強したり調べたりしましたか?
情緒的に受け取ったこともあり、
- 私が家族の役に立つか立たないのか そして
- 自分のキャリアで譲れない部分は何なのか
という2点で悩みました。
実は、自分にビジネススキルがあるのか、会社の経営ができる器なのか、会社がどういう状況なのかは一切考えていなかったです。なので、私の悩みを整理する目的で家族以外の人にも相談しました。例えば、大学時代のアルバイト先で出会った信頼できる上司。お父さんに近い存在でした。私がメディアの仕事を続けるべきか、あるいは家族が必要としてくれる会社で自分の力を発揮すべきなのか、その方に相談すると「答えはあなたの中にもうあるんじゃない?」という言葉をもらいました。
あとは、結婚して今は一緒に平安伸銅工業で常務取締役として働いてもらっていて、公私共にパートナーである(当時お付き合いしていた)主人にも相談しました。主人からは「あなたにしかできない役割かもしれないので、それは後ろ向きにとらえず、選択肢として良いのでは?」とアドバイスをもらいましたね。
そういった意見をもらいつつ、両親の「好きなことをやりなさい」という教育方針で今まで好きなことをさせてもらえたので、次は「求められていること」を自分でやってみるのも良いかなと気持ちが変化しました。自分がやりたいことではなくて、誰かがやって欲しいと思っていることを自分なりに善処する、そして与えられた役割から自分らしさを探していくのも良いかなと。父が困っているのに自分が協力しないという選択を採った後の後悔を考え、入社を決意しました。27歳のときです。
そして決めたからには、自分が経営者になるという意気込みで経営を学んでいこうと思いました。でも、私のような情緒的な判断って今思えば危険な話です(笑)。ご家族が急に体調を崩されて、「すぐに帰って来てくれ」ということで会社を継がれる方もいると思うんです。「家族の生活を支える」そして「事業も支える」ことがごちゃ混ぜに押し寄せてくるケースも起こり得ると思います。
もし、当時の平安伸銅工業がもう打つ手の無いほど経営状況が悪く、それを判断できる力が私にあれば、「戻らない方が良いんじゃないか」と決断する可能性もあったはずです。本来はせめて決算書を読み取る知識があって、会社の経営状態が安定しているのか、下向きなのか、大赤字なのか債務超過なのかを把握した上で、自分の努力によって好転する可能性があるのか、やっぱりビジネスとしてしっかり見る眼を持っていた方が良かったなと思います。
入社して1年以上経って知った会社の危機的状況
——では、入社後に初めて決算書を見たということですか?
2010年1月に入社して最初は開発部で勤務しました。ものづくりの会社なので、「モノが作られる順序を知らないとマネジメントはできない」という父の意図でした。やったこともないCAD図面を半分お遊びで書いてみたり、製造委託をしている海外工場の品質管理を担当したり。でも大した仕事はできなくて、ひどい話でした(笑)。
そして一年ほど経ってから経理業務を担当することになりました。経理を担当するようになってから初めて決算書を見たのですが、簿記を勉強したことが無かったので財務諸表の意味が分かるようになるまで、そこから数年かかりましたね。
——経理に異動したのは「経営を学んでいこう」など目的はあったのでしょうか?
父の体調がさらに悪くなって、短期的な事業運営に不安が生じたのがきっかけです。開発や営業は現場のスタッフで回せる状況だった一方、経理関係は記帳までをスタッフが担当していたのですが、その先の数字の判断や銀行への送金業務はすべて父が対応していました。お金周りという会社の根幹部分は替えが利かないので、父が療養している間に私がそこの対応方法を把握するためでした。
——経理を担当されて、ついに会社の経営状況を知ったという感じですね?
あるときにマスコミから取材依頼があったので、過去残っている決算書の売上と営業利益を40年分くらい並べてみたんです。そこで初めて「はっ」としました。「あっ、そういうことだったのか」と。私は入社して以降の短期的な数字しか見てなかったんです。入社前の30年間を並べて見ることはなかったので、びっくりしましたね。
記録が残っている80年代後半以降では95年が売上のピークで約48億円だったのが、そこから右肩下がりになっていて。私が入社した2010年には14億円まで落ちていました。それを事前に知っていたら、「私、入社したかな」と思って(笑)。
——入社後に御社のビジネス面の課題を感じることはなかったんですか?
全然無かったですね。入社して最初は開発の現場にいましたし、経理に移った当初も「2008年と比べたら売上が少し下がっているかな」くらい。48億から14億まで下がったというインパクトとは全然違いました。
あと、売上は下がっていた一方で、父の努力でずっと黒字経営を続けていたんです。銀行からの厳しい取立ては受けていないし、支払いの滞りもなかった。資本も厚かったので、財務諸表に対して悪い印象を持っていなかったですね。
——その衝撃から危機感が醸成されることになったんですね?
父の療養もあり、私が経営の舵取りをしなければならない。でも、これだけ経営のことが分かっていないのに、銀行対応をしなければならない、社員マネジメントをしなければならない、となって。一歩進まなければならない中で、経験は時間をかけないと身に付かないけど、知識は努力で何とか得られるんじゃないかと思い経営の勉強をしようと決めました。
そこから勉強の場を色々探した結果、神戸大学の忽那憲治先生が主催されている「アントレプレナーファイナンス実践塾」(以下、実践塾※)に出会いました。最初は経営の勉強をするにあたり「イケてる経営者はみんなMBAを持っている」という認識でMBAを取ろうと思っていました。東京や海外には行けないし、私大出身の私は国立へのコンプレックスもあったので、神戸大学かなぁと。卒業できれば学歴ロンダリングもできるなと(笑)。
それで神戸大学に願書を出した後、忽那先生が開催されていたMBAのオープンセミナーに参加したんです。そのセミナーに行って、私の事情を話したところ、忽那先生から「MBAを取る必要はなくて、経営を体系的に学びたいなら、そのエッセンスを学べる実践塾をオススメしますよ」という話になり、2012年4月から参加を決めました。
※:神戸大学大学院教授の忽那憲治教授が2016年まで主催されていた「アントレプレナーファイナンス」を学習する場。ビジネスモデルのプランニング、資金調達、そしてIPOに至るまでの一連のプロセスに必要な基礎知識の習得を目的とする。現在は、忽那教授が2018年2月に設立された株式会社イノベーション・アクセルのプログラムで同様の講座を受けることができる
(中編に続く)